繋がれない首輪をはずして

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 家に帰ったら、生まれたての弟がいた――。



 彼女は薄汚れた床を一心に見つめながら、
ぽつりと、
ぽつりぽつりと、
惚けていた口を動かし、
死をあからさまに目前に晒され、
見つめるべき未来も希望もなく、
彼女は、自分を振り返り始めた。
過去へと、その目を向け始めた。
乾く間もなく流れる涙を湛えた睫毛と、
感情の揺さぶりに耐える頬の痙攣とが、
見ていて、
――酷く、
痛かった。
痛々しかった。

 彼女の名前は、漆野茜(うるしのあかね)。
 平々凡々とはいかないが、珍しい名前ではない。
 彼女は私の近くに来てすぐに俯き、
 名乗るよりも早く絶望を見せ付け、
 ただ、ひたすらに、泣き続けた。
 だから私が彼女に惹かれたのは、
 名前ではなく、その後姿だった。
 薄暗い部屋の中でも上品さを醸し出し、
 全身に闇のように艶やかな漆黒を纏い、
 しなやかで優しい体のラインを横たえ、
 首元に眩しいくらいの紅いアクセサリ。
 周りの喧騒も狂騒も聞こえないかのように、
 彼女は、そっと、震えていた。

 ――大丈夫かい。
 そう声をかけて、
 途端に後悔した。
 ここにいる者が、
大丈夫である筈はないのだ。
 皆、どこか病んでいる。
 皆、一人きりだ。
 皆、助けを待っている。
 助けなど現れないことは、知っているのに。
 大丈夫である筈がないのだ。
 その上大丈夫かと声をかけられれば、
 大抵の者は「大丈夫」と答えるだろう。
 青白い顔を無理やり微笑ませて。
 強張った頬を必死に持ち上げて。
 食いしばった唇の端を上に向け。
 涙の溜まった目を三日月に変え。
 そして答えるのだ。
「大丈夫、ほら」と。
 痛々しそうに。
 しかし彼女は、
 虚ろな瞳をこちらに向け、
「死にそうよ」
 と呟いた。
 それはまるで、
 まるでもう死んでいるような、
 まるでもう生きる気のないような、
 暗く澱んだ、
 抑揚のない、
 凍てついた声で。
 私はなんだか、
 苦しくなった。
 苦々しくなった。

 そして彼女は、
 ふい、と体ごとこちらに向き直り、
「あたしには、わからないのよ」
 と呟くと、
 唇を中途半端な形に開けたまま、
 人形のように、動かなくなった。
 虚空を見つめ、
 そのガラスのような瞳から涙を流し、
 ぴくりとも動かず、
 ただ時々、
 掠れる呼吸だけを繰り返した。

「ねぇ」
 堪えきれずに声をかける。
 周りの騒がしさに比べ、
 彼女の沈痛な静けさが、
 堪らなく、――イタイ。
「なにが、わからないっていうんだ」
「あなたにわからないことが、あなた以上にわからない、という意味よ」
 彼女は答えた。
 ゆっくりと、
 言葉を噛み締めるように。
 あなたにわからないことが、
 私にわからないことが、
 あなた以上に、
 私以上に、
 わからない。
 わからない。

 ――ワカラナイ。

「あなたは後何日、ここにいるの?」
 彼女は体を少し起こし、
 頭を持ち上げると、
 初めて、瞳に、
 涙ではなく、
 涙よりも綺麗な色を映し、
 私の目を見た。

 私の目を見て、
 語り出した。
「あたしは明日、まで、だから」
 奇跡が起きなければ、明日までだから。
 奇跡なんて起きやしないから。
 だから、教えて。
 教えて、あたしに。
 あなたがわからないことを、
 あたしに、教えて……、と。



 あまりに心地よい土曜日。
 ほんわりと陽射しの降り注ぐ部屋で寝転んではいたもののあまりに退屈で、ともすればぽわんと焦点を失ってしまう目を何度が瞬かせてから、少し散歩をしようと、軽く身支度を整えて誰もいない家を後にした。家を出て左に行けば友達の家が何軒かあるが、今日は右へ回ることにする。なんとなく、友達と会っておしゃべりをしたり、遊んだりする気分ではなかったのだ。
 そう、家を出てようやく、自分の不機嫌さに気付いた。
 数日前から、母は入院している。食べすぎのせいかおなかが異常に膨らんでしまった母は、ここ最近、何度か痛みや吐き気を訴えていた。父はそんな母を見舞うために、仕事帰りに病院へ行く。そのため帰宅が遅くなる。おまけに今まで家事をほとんどしたことのなかった父はご飯を作ることすらできず、育ち盛りの娘の食事は三食全てレトルトだ。母の食事が、恋しい。
 母はいつ退院するのだろう。退院しても、すぐに食事は作れるものだろうか。無理かもしれない。今どんな状態でどこの病院にいるのかも、わからないのだから。父は帰ってくるとぼんやりテレビを眺めるばかりでちっとも状況を教えてくれない。それがまた、不安を煽る。
「おぅ、飢えた顔してんなぁ、姐(あね)さん」
 妙なところから声が聞こえた。その特徴的な声は間違いなく、今日一番会いたくなかった隣家のお騒がせ者桂川(かつらがわ)啓太郎(けいたろう)だ。自分もテンションの高いときには一緒にいると一番楽しい仲間ではあるのだけど、今日のように少し縺れた気分の時にはできるだけ話したくない相手なのだ。おまけに「姐さん」という呼び方が気に入らない。最初はきちんと茜という名を読んでくれていたらしいのだけど、だんだんに「あかね」の真ん中が省略され、気位いの高いわたしを揶揄する意味もこめて「姐さん」という呼び名になったらしい。実際の年齢では啓太郎の方が二歳ほど上だから、呼ばれるたびに違和感を感じてしまう。
「別に。飢えてなんかいないもの」
 母から教えられた、いつも気高く、というモットーを思い出してくぃと顎を上げ、振り向きながら塀の上あたりに目をやる。そこにはやはり、得意のニヤニヤ笑いを浮かべた啓太郎が背筋を伸ばして立っていた。いつからいたのだろう。下を向いて歩いていたせいか、まったく気が付かなかった。
「それよりね、危ないわよ、啓太郎」
「馬鹿言うなぃ。オレは高いとこ好きだからな。こないださ、なんとうちの屋根に出てみてさ、その後姐さんちのベランダに飛び移ろうとしたんだぜ。すっごいだろぅ」
「飛び移ろうとしただけ、でしょう? 啓太郎んちの屋根なんて、屋根裏部屋から出られるじゃない。そういう意味じゃなくて、
あたしが言いたいのは、
そこの家は……」
 そこまで言ったところで、案の定、空をも劈(つんざ)く怒声――コリャー! まぁたお前か啓太郎! こっちへ来い! ――が聞こえてきた。
「うわっと!」
 バランスを崩すこともなく父よりもわずかに高い塀からひょいと飛び降りて隣に並んだ啓太郎は、「そういう意味か」と苦笑した。この塀の向こうにある家――山崎さんの家のおじいさんは、普段から傍若無人な啓太郎を目の敵にしているのだ。一度、逃げ遅れた啓太郎は何度も頭を小突かれながら、小一時間も説教を受けていた。その様子をベランダから目撃したときは、ちょっと笑ってしまった。この啓太郎が、なんと泣きべそをかいていたのだから。

 山崎のおじいさんはわざわざ外まで追いかけてくることはなかった。足が悪いのだと、母から聞いた覚えがある。啓太郎はしばらくちらちらと玄関の辺りを気にしていたけれど、やがて安堵のため息をついた。
「で、なんでそんな顔してんだぃ? オレんち、母さんがマドレーヌ焼くって言ってたからさ、食いに来るか?」
 頼んでもいないのに歩調を合わせて歩く啓太郎の顔をチラリと見る。普段が傍若無人で天衣無縫なためにすぐに忘れてしまうのだけど、この啓太郎、なかなかいいヤツなのだ。困っている友達は放っておけないし、泣いている仲間は必死で笑わせようとする。間違っている相手にはビシッと一言言うし、自分が間違っているときは素直に謝る。たとえ自分がどんな目に合っても仲間のためならなんでもやる、という根っからの親分肌なのだ。その上、割と格好いい。引締まった体に小さな頭、鼻はつんと尖っていて、目はくりりと大きいのだから、老若男女区別なしで人気が高い。ただし、山崎のおじいさんのような礼儀を重んじる昔かたぎの人を除いては。
「なんだぁ? オレにようやく惚れた? 惚れちゃったか、姐さん?」
 ただ、格好いいという形容詞には、黙ってさえいればという注釈は忘れずに付けなくてはならないけれど。喜ぶべきことか、それとも迷惑がるべきことか、彼はあたしに好意を抱いているらしく、仲間のなかでも特に気にかけてくれている。オジョウサマにはナイトが必要だろ? ――以前にそんなことを言われた覚えがある。しかしまぁ残念ながら、その好意は一方通行なのだけれど。
「残念ながら惚れてなんかいないもの。でも、その、」
 レトルト食品という素っ気無い味のものばかり食べていたわたしのおなかは、あの香ばしくふんわりと甘い匂いを想像しただけで、くぅ、と小さく鳴った。
「マドレーヌは魅力的」
「そう」
「焼きたては特に、魅惑的。決定決定、行こうぜ」
というわけで、マドレーヌに釣られて一緒に啓太郎の家に行くことになった。ただ、元来た道を戻るのもつまらないので、近所をくるりと散歩続行ということで意見は一致した。

 ゆるゆると歩いていたつもりなのに、あっという間に啓太郎の家に到着してしまった。よほどおなかがすいていたのだろうか。啓太郎のおばさんが出してくれたマドレーヌは、品のいい甘さがとてもおいしかった。散歩の最中はいつも通り騒いでいた啓太郎は、しかしマドレーヌを食べ終わった途端に真顔に戻って端正な顔を近づけてくると、
「で、何かあったんだろ、姐さん」
と、少し拗ねたような表情を作った。
 少し、迷う。
 その迷いは悩みではなく、
むしろ照れ。
 父と母がいない。
 ただそれだけで、
こうも切なくなる自分が。
子どもっぽい。
情けない。
照れくさい……。
「オレには、話したくない?」
 啓太郎は、なぜか悲しそうな顔をして目をそらした。そのしぐさは少しだけ、ほんの少しだけ可愛くて、「つまらないことだよ、きっと」という前置き付きで気持ちを打ち明けてみようかなという気持ちにさせてくれた。だからコホンと軽く咳をして喉を馴らしてから、あたしはなんとか自分の気持ちを簡単に伝えようと試みた。
「えぇと、……お母さんがね、病気みたいなの。入院してて、お父さんはお見舞いに行って夜遅くにしか帰ってこないし。帰って来ても、全然あたしといてくれないし、ね。ご飯もレトルトばっかりで……。
 えと。
 だからどうってわけじゃぁ、ないの。
 ただちょっと、つまらなかったというか……ちょこっと前までは、帰ったらいつでもお母さんがいて、夜にはお父さんも一緒になっておしゃべりしたりテレビ見たりっていう生活が当たり前だったから……」
「淋しかった?」
「……切なかった、かな。もしお母さんの病気が酷くて、死んじゃったらどうしようとか、考えてた……」
 言葉にしてみるといかにも幼稚な悩みで、そんなことで悩んでいる自分がとてもちっぽけに思えてきて、語尾は自然に小さく萎んでしまった。元々誰かに心情を吐露することなど滅多にないのだ。顔を上げるのが恥ずかしいので俯いていると、啓太郎はあぁとかううんとか呻いてしばらく黙っていたけれど、素早い動作で立ち上がると窓辺に近づき、今度はおぉとかよしよしすっげぇタイミングと呟いて、嬉しそうに戻ってきた。その声に釣られて顔を上げる。目の前には、いつものニヤニヤ笑いを浮かべた啓太郎がいた。
「オレが慰めてあげようと思ってたんだけどさぁ、オレより適任が帰ってきたぞ」
「え? お父さん?」
 思わず窓辺に駆け寄ると、確かに父の車のフロント部分が、車庫の中に見えた。
 しかし、どうせ父はまた、のっそりとレトルト食品を食べながら夜までテレビを見て、そのまま眠るのだろう。それとも夕方にはまた、病院へ行くのかもしれない。そんな沈黙の漂う家に戻るのは、より一層淋しい気がする。母がいるときの父はいつだって楽しそうに話しかけてくれるのに、母がいないときの父は、まるで能面のように表情がなくて、一緒にいるのが辛い。
 しかし啓太郎は、そんなわたしの気持ちにはまったく気付かないように、ニヤニヤと言葉を続けた。
「いや、後ろ姿だったけど、元気そうなおばさんも見え……
……おぉーぃ……」
 啓太郎の声を最後まで聞いている余裕はなかった。
 お母さんが、
 お母さんが帰ってきた。
 元気そうに!
 お母さんが帰ってきた!

 転がるように啓太郎の家から飛び出し、急いで自宅の玄関をくぐる。
お父さんの靴。
そして、お母さんの靴!
居間から話し声が聞こえる。
鈴を転がすような、笑い声。
お母さんの、楽しそうな声。
お父さんの、嬉しそうな声。
二人とも、笑っている!
 居間の扉は開いていた。
 お父さんの後ろ姿。
 そして、お母さんの後ろ姿!
「お母さん!!」
 二人は揃って振り返り、顔を見合わせ、再び振り返り。
 そして、にっこり微笑んだ。
「茜ちゃん、弟ができたよ」

 父に場所を譲ってもらい、いつの間にか居間に現れていた木製の檻みたいなベッドを覗き込む。そこには、クリスマスに食べる七面鳥の三倍くらいの大きさの赤ん坊が、七面鳥と同じような格好で、眠っていた。
思わず顔を近づける。
慌てて父があたしに向かって手を伸ばしたけれど、母がそれを嗜めた。
「わ、ダメだよ茜!」 
「パパ、大丈夫よ。茜ちゃんはいたずらしたいんじゃなくって、」
 弟は、ミルクのような香りがした。
「ご挨拶したいだけなのよ」
 おいしそうだった。



「お母さぁん、ごはん、まだぁ?」
 母のおなかは元通りぺたんこになった。
 父の帰宅時間は元通り早くなった。
 家は元通り、笑い声で満ち溢れている。
 ――しかし、そこにあたしの居場所は、なくなってしまった。
 母は最近、いつも弟の部屋にいる。檻の上から弟に顔を近づけては、笑顔でおしゃべりをしている。そうでなければ檻の横で本を読み、檻の傍で居眠りをし、檻の傍で弟を抱いて餌を与える。弟の部屋から出るときは、誰かが訪ねて来たときと、お手洗いに行くとき、そして父が帰ってきたときだけで、食事も昼寝もおしゃべりも編み物も、今までわたしとベランダや居間でしてきたことはすべて、弟の部屋でしている。そしてあたしはその部屋に近づくことも、遠くから母を呼ぶことすらも、許されない。
 ――弟が、泣くからだ。
 彼は自分の姉が嫌いらしい。その上両親を独占しないと気が済まないようで、あたしが部屋をのぞいたり、階下から母を呼んだりするだけで大袈裟に泣き喚く。最近では部屋の前を通りがかるだけでも檻の中で暴れ出すために、
「茜ちゃんは悪くないんだけど」
という前置きつきで、二階に上がることを禁止されてしまった。大好きなベランダにも、なかなか出られない。おまけに母は弟ばかりに目が行って、家事をほとんどしなくなってしまった。最低限の洗濯や簡単な掃除はするのだけれど、ほとんど一日弟の部屋に篭りきりだ。あたしの食事は、頻繁に忘れられるようになってしまった。今日も、朝ごはんはおろか昼ごはんすらまだもらえていない。催促をしても弟が泣くだけで、母は部屋から出てこない。これならまだ、レトルトでも三食くれた父の方がよほどマシだ。

 母が帰ってきたことを喜んだ日曜から、何度孤独な週末を過ごしただろう。
 居間の方からあたしを呼ぶ母の小さな声が聞こえてきて、慌てて駆けつけた。もう何日も、誰からも名前を呼ばれない日が続いていたのだ。居間にはよそゆきの格好をした母と、片手に大きな荷物、もう片手に大きな籠を抱えた父が立っていた。母はまるで誰か――もちろん弟以外に考えられない――に聞かれるのを恐れるかのような声で、「おばあちゃんのおうちに行ってくるから、お留守番しててね」と言うと父の持つ籠をそっと下ろして中を見せてくれた。中には、初めてみたときよりもぶよぶよと少し膨らんだ弟がぐっすりと眠っているのが見えた。それはまるで子豚のようで、ミルクで煮込まれたかのような甘くいい香りがした……。
 今日だって、相変わらず食事を貰っていないのだ。思わず口をぽかりと開けて籠に近づけた途端、
「明日には帰るよ」
と父が籠を上げた。避ける間もなく籠の端が鼻先に当たって擦り剥け、あまりの痛さに瞼を閉じてしゃがんでしまったけれど、両親はそんなことにはまったく構わずに鼻歌まじりに玄関へと向かって行った。籠の中へと、微笑みを向けながら……。

 鼻の痛みが消えた後も、しばらくは玄関から目が離せなかった。
 理不尽な悲しみが、こめかみで渦巻いて眩暈を誘引する。
 冷蔵庫のモーター音だけが響く家の中を歩き回ったけれど、両親の留守中にあたしが食べられるようなものは案の定どこにも無く、暗澹たる気持ちが胸の奥に鉛のように転がって、二階に上がった途端視界に帳が落とされた――。
「姐さんどうしたんだ? 寝てんのか?」
 特徴的な声によって夢から覚めた。大きなケーキの上に綺麗に搾り出された生クリームを、こっそり舐めている夢だった。
 目を開けると、心配そうな顔をした啓太郎が間近に見え、慌てて起き上がろうとしたのに、力が入らなくて思わず転んでしまった。周りを見渡すと一面真っ暗で、いつの間にか夜になっていたことに気付いた。どうやら両親を見送って家中を散策した後、ベランダに出ようとして倒れてしまったらしい。無用心なことに、ベランダは開けっ放しだった。
「気が付いたか……。姐さん、やつれてないか? 最近全然出てきてないじゃないか。何やってんだ? ダイエットか?」
 軽口を叩きながらも、啓太郎の表情は翳っていた。本当に心配してくれているのだ。一体何日ぶりに、この端正な顔を見ただろう。彼の言うとおり、ここ最近、まったく外出はしていない。以前ならいつ出かけていつ帰っても、母が笑顔で送り出し、迎え入れてくれた。しかし今は、家は常に母がいるにも関わらずいつでも戸締りがされていて外へ出にくいし、帰ってきてもすでに家中施錠されていて中へ入れないこともある。その上、あたしが留守にしている間に、弟はどんどんとあたしの居場所を無くしていく。両親の中からあたしを消してしまおうとする。
 それが悔しくて、部屋に近づくことも母を呼ぶことも許されないけれど、せめてあたしの存在を認識して欲しいがために、あたしは家から出ないでいる。時々弟の檻を離れて台所やトイレに行く母や父のまわりにさりげなく姿を出しては、健気にも――そう、自分で言うのも間が抜けているけれど、哀しいくらい健気にも――微笑んでみたり話しかけたりする。もちろん、その大半は無視されているのだけれど。

 一体あたしが何をしたというのだろう。
 啓太郎と違って、あたしはいたずらもしなければ迷惑もかけないし、山崎のおじいさんにだって気に入られるくらい上品におしとやかに振舞える。両親だって、それを自慢にしていたくらいだ。今だって、家に篭るようになるまで、篭ってしまってもなお、あたしの態度はまったく変わっていない。自慢の娘のはずなのだ。むしろ弟のほうが、下品で粗野でどうしようもなく劣っている。それなのに両親は、弟が飲み物をこぼしても、夜中に近所中に響き渡るような声で泣き喚いても、あたしを見て暴れ出しても、にこにこと笑っていい子だねぇを繰り返すのだ。
「うぁ……姐さん!? どうしたっつーんだよ!」
 思わず涙が零れる。
 両親のいる間中、あたしは一度たりとも涙なんて見せなかった。胸を圧迫されるような切なさを感じながらも、いつだって上品に振舞っていた。しかし今、両親はいない。
 緊張が、ほぐれたのだろう。
 あるいはもう、限界だったのかもしれない。
 心情を吐露することなんてあの日曜日の一件以外は前にも後にもほとんどないのだけど、
それは口よりも先に、理性よりも早く、目から溢れ出していた。
「お母さんも、お父さんも、弟に盗られた……!!」
 後はもう、うわぁぁん、という嗚咽と涙がとめどなく噴出し、はじめての事態に妙にあたふたとする啓太郎の前であたしはすべてを語った。

「俺がなんとかしてやるよ」
 語り出すと止まらずに、結局外が白みがかるまでほとんど休憩することも喉を潤すこともなく、あたしは弟への呪いの言葉を、両親への失望の言葉を、吐き続けた。啓太郎は途中慰めることも励ますことも諌めることもせず、ただときどき相槌を打ちながら聞いてくれた。
「だから茜、もう、泣くな」
 すべてを吐き出して気持ちも体力も萎んで崩れ落ちたあたしに、啓太郎はそれだけ言うと一旦自宅に戻り、いくらかの食べ物を持って再び屋根伝いに戻ってきて、
「俺が、茜のお父さんとお母さんを取り戻してやる。だから、今日はもう、眠れ。あんまり眠ってないだろ、その顔じゃあ……。ちゃんと、こんな床じゃなくてベッドで、何も考えずにゆっくり眠れ。茜の呪いは、俺がきっちり受け取った」
まるで以前の両親のようにあたしの頭を撫でた。
 鉛のような体を無理矢理立たせる。啓太郎の持ってきてくれた昨夜の夕飯の残り(だと思われるもの)のおかげで、胃が収縮するような気分の悪さは多少回復された。これならば少し、眠れるかもしれない。啓太郎の予想通り、ここ最近ほとんど眠っていない。眠ろうとしても、おなかが奇妙な音を立てたり痛みを発したりして、ほとんど眠れなかったのだ。
 ベッドまで、とぼとぼ歩く。もうずっと洗うどころか干してすらいないベッドはじめじめしていたけれど、体を横たえた瞬間に、意識がふぃと、途切れた。



 超音波のような叫び声によって目覚めた。

 悲鳴の元へとゆるゆると歩いていく。いつの間に両親は帰ってきていたのだろう。眠ったのは明け方のはずなのに、すでに辺りは暗かった。時計を見上げると、夜の九時を示している。台所からは少し冷えたいい匂いがする。どうやら祖母の家から戻ってきた両親はあたしを起こすこともなく夕食を食べ、弟の部屋で過ごしているらしい。しかしこの悲鳴はなんだ。これは弟のものではなく、――母の声だ。
 大きく開かれた扉から、中をこっそりと覗く。こんなに近くまで来たというのに、弟の鳴き声は聞こえなかった。視界には、かつて見たことのある風景とは大きく様相を変えた部屋の中身が入ってきた。

血まみれの檻。
 血まみれの弟。
 そして両手にべっとりと血をつけた両親。
 弟は、絶命していた。
 足音を立てないように両親の背後に近づく。両親の腕に抱かれた弟は、白目を大きく見開き、口を歪め、首から血を噴出していた。父が血に汚れた手で携帯電話をかけている。母は悲鳴を上げるのを止め、弟の名前を呼び続けている。
「お母さん」
と声を掛けると、母はビクリを体を強張らせ、錆付いたロボットのように首だけを後ろに回すと、
「あ、あ、かね……」
とかさかさした声であたしを呼んだ。もう一歩母に近寄ろうとしたところで、突然横から父が汚れた手で掴みかかってきた。
「お前が! お前がやったのか!」
「待ってパパ! 茜ちゃんじゃ……茜ちゃんじゃない!」
 母は弟を抱いたまま腰を少し上げ、父を牽制した。それでも父はあたしの首を掴んで、締める――。
「茜ちゃんは、ずっと寝てたじゃない! 居間でずっと寝ていたでしょう!?」
 す、と首を絞める力が緩んだ。思いがけないことに止めてしまっていた息を勢いよく吸い込むと、激しく咽る。父はそんなあたしを床に落とし、だってこの足跡は、と呟いて弟の部屋に敷き詰められた絨毯をぼんやりと見つめた。模様のないベージュ色の絨毯には、あちこちにあたしの足跡とよく似た大きさのものが、血のインクでスタンプされていた。
 ――啓太郎。
 頭に浮かんだのは、昨日の啓太郎の、何かを決意したような厳しい双瞼だった。
そうだ!
不意に重大なことに気付く。弟は、死んだのだ。あの様子は間違いなく死んでいる。つまり弟はいなくなる、ということだ。この家からいなくなる。家族からいなくなる。父と母の中から、あたしの居場所だったところから、消えてしまうのだ!
 啓太郎はあたしの呪いを早速発動させてくれたのだ。あたしの心で渦巻いていた弟への醜い呪術は、啓太郎によって増幅され、弟へと見事に到達したのだ。
 ――俺がなんとかしてやるよ。
 彼は、あたしの望んでいたことを、やってくれたのだ。これで両親はあたしの元へ戻ってくるじゃないか!!
 嘆き悲しむ両親を横目に、あたしは酷く嬉しくなって、こっそりと笑った。



 黒い服の、知らない人たち。
 煙臭い家と、陰気臭い両親。
 たまらなくなってベランダに逃げ出すと、啓太郎がまた、屋根伝いにやってくるのが見える。啓太郎は何も言わなかった。自分の功績を誇示することもなく、隣に並んで山崎さんのおじいさんが珍しくちゃんとした格好で玄関を出て左に曲がり、あたしの家への吸い込まれるように入っていくのを一緒に見た。家の外には啓太郎の両親を含めた近所の人たちがわらわらと群がっている。啓太郎の両親は酷く青ざめていて、まるで人を避けるように壁際で俯いて立っている。
「戻ってきた?」
 両親のことを言っているのだろうと思い、あたしは首を左右に振った。啓太郎は「もうすぐだ。この儀式が終われば、戻ってくるよ」と視線を家の中へと向けた。そこには父が、憤怒の形相で立っていた。
「また来る。茜のお父さんは、俺が嫌いみたいだ」
 啓太郎が音もなくベランダからいなくなると、父はあたしを部屋の中へ連れ戻し、ぴしゃりと窓を閉めた。

 父と啓太郎が顔を合わせた日から、なぜか啓太郎は家に来なくなった。たまに散歩に出かけても、家の前を通りかかっても、啓太郎の姿は見えなかった。両親がまだ、あたしの元へ戻ってきていないからだろうか。
 家中から線香臭さが抜けてもまだ、両親は腫れ物に触るかのような態度であたしに接している。食事はもらえるようになったし、出かけたいときに出かけ、いつ戻って来ても母が笑顔で迎えてくれるようになった。ただ、以前のような自然な態度ではないようにあたしには思えた。どこか強張っているのだ、父も、母も。
 ぼんやりとベランダから啓太郎の家を見る。あたしにはまだ、この眼下に広がる深い狭間を飛び越えてあちらの屋根に渡るような勇気はない。
「茜ちゃぁん……」
 階下から母の声が聞こえた。
 慌てて駆け下りると、珍しくお出かけの格好をした両親が立っていた。母は手に、よそゆき用のあたしの紅いネックレスを持っていた。
「ドライブに行くよ」

 定位置である後部座席に乗り込む。
 助手席には妙に静かな母が、運転席には顰め面の父が座り、車はゆるゆると出発した。エンジンの重低音と車特有の揺れ、それに窓から吹き込む風が心地よい。こんな気分はどれだけぶりだろう。両親が押し黙っているのが難点だが、あたしは満足していた。徐々にではあるけれど、啓太郎の言うとおり、父も母もあたしの元へと戻ってきている。以前のように笑って過ごせる日も、もうすぐだろう。
 だんだん外の風景が、見慣れないものになっていく。沈黙の息苦しさを振り払いたくて時々母に話しかけてみても、母は頓珍漢な答えしか言わなかった。
「もうすぐ着く」
 素っ気なく父が言った途端、母が後ろを振り返ってごめんねと呟いた。意味がわからず首を傾げてみる。弟ばかりに感けてあたしに疎外感を与えたことへの謝罪だろうか。それならばもう、あたしはとっくに両親を許している。両親が戻ってきてさえくれるなら、あたしはそれでいいのだ。ほんのちょこっと苦しかっただけだ。
 あたしは怒ってなんかいないよ、と答えた途端、
「お前は一体、あの子とコイツとどっちが大切なんだ!」
と父が母に向けて激昂して、ハンドルをバンッと叩いた。
「あの子は殺されたんだぞ! 俺は! 俺はアイツを殺したくらいじゃ怒りも悲しみも納まらないっていうのに!」
「…………」
 母は、何も言わなかった。信号をいくつも通り越えてからようやく、どちらも大切だよ……と小さな声で言った。「どちらも大切だよ。でも、わたしたちはあの子ばかり見て茜ちゃんを忘れてたのよ。茜ちゃんだって、まだ、子供なのに。わたしたちの、子供なのに……」
 そして誰も何もいわないまま、車は静かに停止した。

 久しぶりの楽しいはずのドライブは陰鬱な雰囲気のまま目的地に到達した。先に車を降りた父が初めて見る建物へと足早に入って行くのが見える。母は首だけを後部座席に向け、悲しそうな顔をすると、「啓太郎くんと、恋人だったのかなぁ」と突然呟いた。驚いて、慌てて首を降る。まさか、ただの仲間なのだ。どこを勘違いして恋人などと言い出したのだろう。少し不本意な気分になり、ふてくされた振りをすると、母は何を思ったか「啓太郎くんの片思いかなぁ。イイコだったね、あのコは」と困ったような顔で微笑んだ。遠くから父が、母を呼ぶ声が聞こえた。


 
「ごめんね、茜ちゃん……」
 広く綺麗な部屋に並んだ素っ気無い椅子に座ると、途端に母はあたしを抱きしめて涙ぐんだ。父がそっぽを向いたまま静かに叫ぶ。
「だから! 謝る必要なんてあるもんか! こいつは、俺たちの子を……」
「でも、やったのは茜ちゃんじゃないもの。それに……」
 何かを続けて言おうとした母を遮り、父は頭を抱えた。
「わかってるさ。でも……同じことだ……」
 こいつが唆したんだ、共犯は同罪だ、と父は母だけに聞こえる声で呻いた。
 ――ソソノカシタ? キョウハン?
 首を傾げて母を見上げると、母は目をそらした。奥のほうにあったアルミ扉から知らない男の人が重い足取りでやってきて、軽く頭を下げると父に向かって話を始めた。内容のほとんどは理解できないことだったが、話の中に啓太郎の名前が何度か出て来るのがとても不思議だった。
「本当によろしいのですか? 見たところ怪我や病気があるわけでもないし、ずいぶん育ちのいい子のようですが、」
 人のよさそうな男性は頭をかきながらあたしを眺め回した。育ちがいい、という言葉に、あたしは誇らしい気持ちになる。しかし両親は、沈んだ表情のまま首を横に振った。
「いいんだ。もう、飼えないんだ」
「そうですか……。犬の場合は五日間保管なんですが、猫は、一日です。明日には処分を……」
 わかっている、とまるで汚いものを吐き出すように、父は呟いた。
「では、こちらにご記入をお願いします」
 そっとため息をついて、男の人はペラペラの薄い紙を父に渡した。父がそれに向かって乱暴に何かを書き付けると、母があたしの頭に手を伸ばし、
「茜ちゃん、ごめんね……」
と涙ぐみ、父に聞こえないような声で「わたしたちが、悪かったのよね……」と囁いた。両親は揃って見知らぬ男性に頭を下げ、くるりと踵を返すと、あたしを置いて歩き始めた。
 お母さん?
 お父さん?
 どうして置いていくの?
 この人は誰?
 キョウハンってなに?
 どこへ行くの?
 お父さん!
 お母さん!!

 いくら問いかけても、両親は振り返らなかった。真っ直ぐに両開きのガラス扉に向かって、足早に去っていった。あたしを、他人に委ねて。



「わたしのどこが、いけなかったの?」
「なぜ両親は、わたしを、捨てたの?」
 一晩中切々と、時には涙し、時には怒りながら語り続けていた彼女は、沈痛な声で静かにそう問うと、答えを期待するようでもなくまた、ゆるゆるとそっぽを向いてしまった。いや、彼女の視線を追うと、その通路の奥から手に麻袋を提げた作業着姿の人間が数人、ぞろぞろとやってくるのが見えた。周りの喧騒は、いつのまにか怯えたような静けさに変わっている。
「もう、時間なのね」
 ぽつりと呟くと、再び彼女は私を見つめた。私は何も言えずに、その瞳から目を逸らし、薄汚れた床を見つめる。
 彼女の求める答えがわからなかったからではない。その逆だ。私は彼女の問いに簡単に答えることができる。ただし、それは儚げな彼女を硝子細工のように粉々に、瑣末にしてしまうだろう。死に行く彼女に毒を飲ませるような真似を、したくはない。彼女の投げかける質問はあまりに当たり前のもので、私たちは普通生活していく上で自然に、ゆるりゆるりと答えに気付くのだ。
 彼女にイケナカッタコトがあるとすれば、それは愛玩動物として生まれたことだけで、
 彼女をその両親が捨てた理由は、ただ単に、彼らにとってジャマになったからなのだ。
 動物として生まれ人間に飼われるのならば、人間を羨んだり憎んだりしてはいけないと私は思う。私たちが彼らをどう思おうと、彼らにとって私たちは、あくまで自分達より低レベルな存在に過ぎない。私たちが逆らえば、偉ぶれば、従わなければ、簡単に捨てられる。いや、そんなことをしなくても、彼らが私たちに飽きれば、邪魔になれば、それでおしまいなのだ。だから私たちは、せめて彼らの喜ぶ顔を見るべく、必死に付き従うしかないのだ。
 私はとうに、自分と家族を同じレベルで考えることを諦めている。餌をもらえなかろうが、何も告げられぬまま数日留守番させられようが、無理な芸や理不尽な命令を強要されようが、言われるまま喜んで従うしかないのだ。そうしなければ自分の精神がやられてしまう。いや、精神だけではない。下手をすれば彼女のように、命すら奪われてしまうのだ。
 ここへ置いていかれるというのは、そういうことだ。
 つまりは二重の意味での死刑宣告。家族としても、生命体としても、イラナイモノとして認識されたということ。

 近くの檻から悲痛な叫びが聞こえる。迎えが来るから、もう少し待てば来るのだから、だからまだ殺さないでと、私が来る以前からそこで威勢よく騒いでいた青年が暴れている。昨日は同じように、目の前の檻からも寿命が近そうな老人が連れて行かれた。ここには死刑宣告をされた者だけではなく、道に迷って家に帰れない者や誰も知らない所で生まれ育ち外で遊んでいるところを捕まえられて来た者もいる。そういった者に、最後の最後まで希望が残されていて、五日以内に迎えが来ればここから出られる。いや、犬の場合は、だが。
 彼女のような猫の場合は、希望の灯火がゆらめくのはたったの一日だ。ここへ連れてこられた翌日には、あの麻袋に入れられて連れて行かれてしまう。その先はどうなるかわからない。ただ、殺されるということだけはわかっている。麻袋の男たちが、悲しみを堪えた声で、あるいは残虐そうな笑みとともに、檻の向こうでそう言うからだ。私にはまだ、希望がある。明日までという頼りない灯火だが、まだ灯っている。その灯火を消さないために、連れて行かれる仲間から目を逸らし、耳を背ける。

 しかし、彼女の視線がそんな私に突き刺さる。答を、求めているのだ。私にはとうに決着のついているわかりきった答えを、誰もが知らないものだと淡い勘違いを抱いて待っているのだ。そして同時に、彼女自身を正当化して貰いたがっている。キミは間違っていない、両親と、そしてなにより弟が間違っている。キミはもっと愛されるべきだったと、愛されるだけの価値があったと、言われたがっているのだろう。

 ゆっくりと、それでも確実に、麻袋の男たちは彼女の檻へと迫ってくる。
 私はどうするべきだろう。
 私と彼女では、立場が違いすぎる。彼女にまだ希望があるなら、私はいくらでも説教まがいに語るだろう。しかし、彼女にあるのは闇のような絶望だけで、そこにはほんのわずかにすら灯など灯っていないのだ。
 男たちが、檻の扉に手をかける。
 こんなに上品な猫なのに、と一人が言った。
 彼女は反応しなかった。ただ、私を見つめている。答えを待っている。許しを待っている。
 荒くれた手が、彼女を捕まえた。彼女はちっとも抵抗をしなかった。
 今、私に言えることは。
 今、私にできることは――。
「キミはもう、答えがわかっているだろう? 認めたくないだけだ。それが、正解なんだ」
 人間は愛玩動物よりも同じ人間の方が、たとえどんなに劣っていても大切なのだ。彼女がどれだけ優れていても、人間には決して勝ることはないのだ。
 彼女は袋の中で、小さくにゃぁ、と泣いた。



「まったく、探したよ、佐助」
 見知らぬ男に連れられてリノリウムの床を慎重に歩いていくと、少し開けた場所に簡素なソファが並び、まばらに人影が見えた。どこからか、嗅ぎ慣れた匂いが漂い、聞き慣れた足音が響いた。
 父だ。
 すぐ後ろのソファには、祖父が緊張した面持ちで座っている。祖父は私が苦手なのだ。一度、しつこく手をひっぱられたことがあり、思わず噛み付いてしまったことが原因だ。
 彼女が麻袋に入れて連れていかれてすぐに、私の元に作業着姿の男がやってきた。「一日早いではないか!!」と焦ったのもつかの間、その男は「お迎えが来たぞ」と私に笑いかけたのだ。私の中に灯っていたほんのわずかな希望は、私を煌々と照らしてくれる現実へと姿を変えた。そして周りの野次や羨望、妬みや恨みの声を背に私は、4日ぶりに薄暗い部屋を後にしたのだ。
「無事でよかったなぁ」
 頭を撫でる父に寄り添う。死なないでいいのだという安堵と、彼女への申し訳なさが心のどこかで混ざり、胸がスィとどこかへ引きずられたように切なくなった。結局私は、話を聞く以外彼女に何もしてやれなかったのだ。それが口惜しい。全身に、彼女の身に起こったできごとを追体験してしまったかのような気だるさと陰鬱さが、ねっとりとこびりついている。とにかく今は、早く帰って馴染んだ布団に包まれて眠りたい。彼女のあの、無垢で真っ直ぐで品のあるまなざしを、振り払いたい。彼女に告げられなかった答えが、首の後ろ辺りから私を苛んでいる。

 建物を出て、久しぶりに大地を踏みしめる。大きく息を吸って自然の風を吸い込む。
――なんて気持ちがいいのだろう。
今まで当たり前だと感じていた地面や空気が、とても新鮮に感じられる。私もまた、あの檻の中で病んでいたということだろう。誰もがすすり泣き、雑言を喚き散らし、自らの体が傷付いてもなお暴れ、そうでもなければただ壁を眺めて放心しているような中で、私の精神も相当に参っていたのだ。
「母さんは家で待ってるよ。おまえはいなくなるわ、初音は戻ってくるわで、家は大変だったんだぞ。一気に賑やかになるなぁ」
 父は私を車の助手席に迎え入れ、笑いながらそう言った。私は初音姉さんが戻ってきているということに少し驚き、同時にとても嬉しく思った。初音姉さんは数年前に家を出て行ってしまい、以来滅多に帰ってきてはくれないのだが、私を一番愛してくれている人なのだ。私も、家族の中で一番初音姉さんが好きだ。時々初音姉さんと一緒に来る、なんとかいう男性は好きになれないのだが……。

「おーい、母さん! 初音! 佐助が帰ってきたぞー!」

 ばたばたと、騒々しいくらいの足音が廊下の端から響いてきた。母は私を見つけると顔を両側から押さえ込みゆさぶりながら、何度も「よかったねぇ佐助、本当によかったぁ」を繰り返した。視界がぐるぐると回る。しかし私には、母を振りはらったりその腕に噛み付いたりする余裕はまったくなかった。
 母の向こうから、満面に上品ではないけれども愛らしさのある笑みを浮かべた初音姉さんが、ゆっくりとした足取りで歩いてくるのが見えた。
「佐助、川に落ちて保健所に保護されたんだって? まったくあんたはおっちょこちょいだねぇ」

 以前見たときより少しふっくらとした初音姉さんの腕の中には、クリスマスに食べる七面鳥を三倍くらい膨らませた赤ん坊が、私を見つめて今にも泣き出しそうな顔をしていた――。
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